■ 薩摩武士道 ■
現在の鹿児島県に、天眞正自源流兵法を育んだ薩摩藩がありました。薩摩藩は外城制度、門割制度などによって他藩に見られない強烈な封権体制が幕末まで保持されてきました。
また、郷中教育と合わせて、薩摩琵琶のような藩特有の武士教育も行なわれてきました。
これらが、薩摩藩士に深い影響を与えた事は勿論ですが、天眞正自源流兵法は、それらの中でも独自な存在として確立されました。
流儀の結実については、背景となる当時の社会実相を知る必要があります。
開祖瀬戸口備前守の生きた永正年代は、南北朝の抗争、応仁の乱による混迷、二〇〇年に渡る人民の古代権力と古い封権勢力に対する戦いが熾烈を極めた時代です。
その様な時代背景の中で、島津氏も薩摩入国後の三州紛乱、九州制覇、更には、秀吉の来征、そして、「朝鮮出兵、関が原の敗北」と奔走多難の時を迎えようとしていた頃でした。
一方、応仁の乱以後の暗黒紛争時代は、近世文化の始動期とも言える、乱世混迷の中に新しい権威、新しい制度が構築され、古文化の衰退分散は、次の新しい文化を生み出しつつありました。
中央に独占されていた文化は、地方武士階級の間に伝播され、豪族勢力の確立は地方文化の育成を招く結果となったのです。
薩摩に於ける禅宗隆盛に伴う宋学興起もそのひとつであり、儒仏二教の一致哲学などの学風も新たなる文学として伝播されました。
その様な時代背景の中で、天眞正自源流兵法は薩摩に定着しました。
開祖の伝播した流儀は、第十二代薩摩藩主島津忠治に伝わり「武芸兵法書一巻」を上呈しました。
瀬戸口備前守政基は、御流儀開祖となり名を「政重」と改め、天眞正自源流兵法を確立したのです。
天眞正自源流の教えは、薩摩藩士風の精神形成をする上で要となり、その剣法技術は他を圧倒するものであったと伝えられています。
流儀に於いては三教「神・仏・儒」を調和良く融合し、平和理想主義を基本とする教義が実践されていました。
自源流の教えにある「一の太刀を疑わず、二の太刀は負け」の意味を知らない者は「最初の一太刀で敵を倒すべし」と解釈していますが、流儀教典に於いては次のように教示しています。
「一つの物事に取り掛かるとき疑うことはしてはならない、万事、一言一句を信じ、貫き通してこそ武士の道である。故に、二度目は無いものと心得る事である」と教えているのです。
薩摩武士道に於ける「君主、朋友、妻子、人を信じきる事、目的事業を全うする事」を根底に置く、人道の教えに他ならないものです。
明治維新の大業が成されたことも、一つの信じた道を疑わなかったからこそ成しえたものです。
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