薩摩「ジゲンリュウ」の剣法は、幕末から明治維新にかけて勇名を馳せましたが、その実態は解明されぬまま、廃刀令を向え、薩摩剣法の名前は歴史の表舞台より姿を消しました。
天眞正自源流兵法は、昭和三十九年、第二十七代上野源心師父によって、戦後始めて公開されました。
終戦を満州で迎えた源心は、中国を横断して翌年の四月に帰国し、皇室出身の賀陽常憲王殿下の下へ出向き、身の振り方を相談しました。
殿下の助言に従い、鹿児島に帰省する事を断念した源心は、東京に留まり戦後処理に人力する事となり、東京裁判には、皇室側の速記者として出席し、インドのパール判事と交流を持つことになりました。
ラダ・ピノート・パール判事とは、東京裁判終結の帰国まで交流し、戦後の日本復興の為に、多くの助言を得ることが出来ました。
戦後処理にひと段落したところで殿下の進めに従い、青少年育成の為、当時の一等地である東京浅草に、総合武道尚武館を建設しました。
尚武館には、多くの門人が集い尚武精神を根本義とした自源流武術を学びました。
源心の仕事は多忙を極め、尚武館館長の仕事と連盟の関東事務局長を兼任し、国内の各種武道大会の呼びかけに応じて、門下生と共に馳せ参じました。
天眞正自源流の名前と、浅草尚武館の名声は,全国に知れ渡り、遠くは北海道や九州から、内弟子を希望して集まってきました。
尚武館は、薩摩武士道の尚武精神を伝え、青少年の育成を最大の目標としていました。
講談社野間道場出身の「森寅雄」は、源心を次の様に語っています
「上野源心先生は、私が人生で出会った最初で最後のサムライです。私も先生を見習って人生の最後まで教えることをあきらめません」と。
森 寅 雄 先 生 |
源心も最後まで真の指導者であることをあきらめませんでしたが、同様に、森寅雄も遥か米国の地で、剣道の指導中に絶命しています。
防具を着けたままの大往生であったと言います。
源心の尚武精神は、昭和三十年代に開花、四十年代前半に大きな花を咲かせました。
尚武館ではその意志を継承する門人が数多く輩出され、後者の指導に当たりましたが、源心は全盛期の最中、病の床に伏し、昭和四十八年五月、帰らぬ人となりました。
天眞正自源流兵法の尚武精神は、尚武館の閉門と共に絶えるかと思われましたが、没年の翌年、昭和四十九年に嫡子景範が、第二十八代宗家を継承しました。
景範は、昭和五十七年に「総合武道源心会」を設立し、広範囲にわたって指導を展開しました。
平成九年に、実弟「童心」へ第二十九代目が継承され、源心の血と意志を受け継ぐ者として、両輪龍虎の如く、二十一世紀を迎えた天眞正自源流兵法は二人の継承者の下、広く海外に支部を置き、青い目の剣士達を指導しています。
源心の顕した「尚武の精神」は、御流儀の武術のみならず、全世界の武術を志す者達へと伝えられるべきでしょう。国境を越え、人種と言語の壁を越えて、理想へ向う時が訪れているからです。
|